2012年11月19日 星期一

妙喜庵(みょうきあん)茶室(待庵)

妙喜庵茶室(待庵)  每日新聞1989
1977
重要文化財 妙喜庵 国宝茶室 待庵
Tai-an Tea House, Myoki-an Temple

数寄屋・木造平屋
京都府大山崎町 [Oyamazaki, Kyoto Pref.]
設計・京都府文化財保護課


躙口
Entrance









茶室
Tea Room





主題導覽

妙喜庵‧待庵

妙喜庵‧待庵 妙喜庵於室町時代所創建,是臨濟宗東福寺派的寺院。此外,待庵是現存國內歷史最悠久茶室,也是日本僅存的3個國寶茶室之一。被認為是千利休所作,茶室的大小為兩塊榻榻米。參觀茶室需要提前預約。
地址 :
京都府乙訓郡大山崎町龍光56



妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。
室町時代明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。国宝茶室待庵(たいあん)」があることで知られる。連歌師山崎宗鑑の屋敷(對月庵)を宗鑑退去(大永3年(1524年)ごろ)後寺庵に改めたとの伝えもあるが、春嶽は永正6年(1510年)にすでに没している。また、大山崎集落の大阪府側(島本町山崎)には宗鑑旧居跡(宗鑑井戸)の伝えもある。これらのことから「妙喜庵=宗鑑旧居跡」説は成立しがたい。

目次

待庵 [編集]

国宝。日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。現在一般化している、にじり口が設けられた小間(こま)の茶室の原型かつ数奇屋建築の原型とされる。寺伝には、天正10年(1582年)の山崎の戦いのおり羽柴秀吉の陣中に千利休により建てられた二畳隅炉の茶室を解体し移築したとある。慶長11年(1606年) に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の妙喜庵の位置あたりに「かこひ」(囲い)の書き込みがありこのときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられ る。同図には、妙喜庵の西方、現在の島本町の宗鑑旧居跡付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせ る。したがって待庵はこの利休屋敷から移築されたとも考えられる[1]
茶室は切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建つ。茶席は二畳、次の間と勝手の間を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東隅ににじり口を開け、にじり口から見た正面に床(とこ)を設ける[2]。 室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風とする。床は4尺幅で、隅、天井とも柱が表面に見えないように土で塗りまわした「室床(むろど こ)」である。床柱は杉の丸太、床框は桐材で、3つの節がある。東壁は2箇所に下地窓、南壁には連子窓を開ける。炉はにじり口から見て部屋の左奥に隅切り とする。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは室床とともに、2畳の室内を少しでも広く見せようとする意図とされている。天井 は、わずか2畳の広さながら、3つの部分に分かれている。すなわち、床の間前は平天井、炉のある点前座側はこれと直交する平天井とし、残りの部分(にじり 口側)を掛け込みの化粧屋根裏とする。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木、小舞などには竹が使用されている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の 採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には襖を隔てて続けて1畳に幅8寸ほどの板敷きを添えた次の間が設けられ、次の間の北側に勝 手の間がある。一重棚を備えた次の間の用途については江戸時代以来茶人や研究者がさまざま説を唱えているが未だ明らかになっていない。

書院 [編集]

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